レベルと方向性 – 2

前回は、芸術には技術や知識のレベルと、どこへ向かっているかという方向性の見極めは密接に絡み合っていて、明確に見極めるのが難しいということについてでした。
今回は具体的に音楽や二胡における方向性について掘りさげていこうと思います。

前回の記事 レベルと方向性 – 1

鼻に指突っ込んでるよ〜

これは、僕が今まで“作る”ということに携わってきて、20代の頃はとてもそこに悩み苦しみ、色々見て勉強して来れた結果得られた自分なりの答えなだけでして、完全な持論です。
…って今までもそうなんだけど(´Д` )

見極めるのが難しい原因は、主に方向性の方にあります。
が、その方向性というのがやっかいでして、それが見方によってはレベルの問題と見間違うことがよくあります。
ということを前置きにして、何のことを言っているのか分からなかったかもしれませんが、ここからが本題。

方向性っていうものを具体的に明確に定義するのも難しいのですが…僕なりに。
前回に書いた “二胡 ⊆ 音楽 ⊆ 芸術”、つまり二胡も音楽も芸術という括りに含まれるということ、そして、芸術とは心の内界にある“なんかもやっとしたもの”を外界に放出する手段として、ちゃんと具現化する手段を用いる。
その手段として “音楽” とか “二胡” を使用している、ということを根本としていきましょう。
あ、えっと…僕からの提案です。
これを忘れてしまうと起こる現象としてよく見られることですが、手段と目的が入れ替わってしまいます。
今回はこの件についての言及はここまでにしますが、これが後々意味が出てくることになりそうな、ならなそうな…(´Д` )

外界に表出するということは、何かしら他人とある種の感情を共有したいからこそ表現するのです。
楽しさを人と共有したい場合は、楽しい音楽を選択し、楽しく伝わるような奏法で伝えようとします。

ここで、一つの方向性が生まれます。
“楽しい” という方向です。
従って、この時点で既に楽しさを共有したくない人にとっては、楽しさを表現したい人との方向が合わなくなります。

もしこの時点で、これが楽しいか?哀しいか?だったら明らかに方向性の問題なので、そのような人たちと共有できなかったとしても悲観することはないと思います。
しかしこれを提案された人たちの感想が、楽しいか?楽しくないか?だったら、提案の方法、つまり、楽しさを掘り下げるレベルが至らなかった可能性も充分にあります。
そして、それがそうだとも言い切れないところが難しく、僕にとっても探求し続けなければいけない課題になります。

今回の書いた内容を最後にまとめて、次回に繋げたいと思います。
1.楽しいと悲しいの方向の違いは、なぜ悲観する必要がないか?
2.楽しいと楽しくないの違いは、どこに原因があるか?

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