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サムネの写真、2003年のGWだって。
この時の母と、今の僕の歳が近い。

写真の父の右頬と、僕の右頬に吹き出物の痕がある。
体質的な特徴は結構遺伝的なものを父から受け継いでいるんだよな。。
疲れが目に出てものもらいができることとか、歯茎が腫れるとことか。

この日は父の告別式と初七日法要。
山梨では通夜の翌日、先に火葬をしてから告別式だった。

社会人になってから行った葬式は、東京と兵庫、栃木…だったかな?
告別式の後に火葬が全国共通かと思ってたんだけど違うんだ。

火葬前の出棺は、他県で経験した出棺よりも、送り出すという儀式感が強かった。
棺を閉めるのが、やはり悲しい。

出棺して火葬場までは車で10分くらいのところ。
ここの景色は覚えている。

父を送る。
残った骨は多かった。
山梨は全収骨…というらしい。
関西の方は部分収骨が主流だそうだ。

斎場へ戻り告別式。
終わったあと、ご住職様の待たれてるお部屋へ。
暖かいお言葉をいただく。

その後初七日法要。
親族の皆さんや、父に縁の深かった方達と食事の席へ。
父に縁(ゆかり)の深かった方々からお話を聞いた。

父の30〜40代、仕事でやりたい事の実現に向けて1番勢いで突っ走ってる様子を伺えた。

農協を辞めて、山梨で舞台系のイベント事業(興業)を立ち上げ、当時の僕は子供ながらに堀ちえみさんのコンサートを主催した父の仕事はスゴいなぁと思ってた。
そのコンサートの時に父から「堀ちえみさんに握手してもらって来なさい」と言われて、列に並んでる大人たちの中に1人だけ幼い子供(小学生低学年だったと思う)で、ワケも空気もわからずにとにかく並んで、自分の番が来た時に間近で見た堀ちえみさん。
とても小さかったのも印象的だったが、それまでの他の人からは感じたことのない、一際目立ったオーラ的なものを発してした事に「こんなに特別な人がいるんだ。」「アイドルってホントに違うんだ。」と子供ながらに感じたのを覚えている。
その堀ちえみさんが、並んでた僕の番が回ってきた時に目が合った時『こんな小さな子供が!?』という驚きの顔で「ありがとうございました!」といってくれたのを、この歳になってもまだ覚えている。
それほど印象深い記憶だった。

中学くらいの時には興業日には舞台セットの搬入搬出やチケットのもぎりや物販を駆り出させる形で手伝うようにもなり、当時大流行のCCBを呼んだり、ホリプロのピーターパンを夏休み家族向け企画として呼んだりして、その舞台が作り上げられる舞台裏の様子や、タレントさんの舞台裏を間近で見れたりとかが楽しかった。
そんな父の仕事はスゴいんだと思ってたし、自慢でもあった。

でも家の経済事情は、さほど裕福な方ではなく、近所の同い年くらいの友達や同級生がファミコンのカセットをいっぱい持っているのが羨ましかった。
色気付く年頃になってくると、同級生が私服にカッコいい服をいっぱい持ってたり、ベンクーガーのタンランやボンタン(昔の学ラン)を何着も持ってるのも羨ましかった。

僕が高校を卒業して上京し、社会人になって30代を過ぎ、二胡も専業になってようやくちゃんと生活できるようになったかな?となってきた頃、弟が家業を継ぎ、稼ぐ手段としてはもともと掛け的な要素も強い業種だったので不安定ではあったが、経営状況は良くない方へ行っていることをよく親から聞いていた。

この頃辺りから父は発言があまり的を得ていないことが多かったように思う。
その時の会話の流れから、突然違う内容になったり、観念的になりすぎて父にしか分からないような内容になってたりしていた。
交通事故の加害者になってしまったことも重なって、自分を必死で守るような詭弁を言わないと自分を保っていられなかったようにも感じた。

体質的な部分を父から引き継いだ僕は、芸事やものづくりが好きだった性質も受け継いでいたように思う。
父は芝居も音楽も好きで、芸術が好きで、それにたずさわる仕事を選び踏み出し、取り組む姿勢もその結果も、人に認められ、すごいと思われたかったのだ。
それが経済的な結果を伴わなかったことにも、家族の理解が得られてないと思い込んでしまっていたこと(理解がなかったら事業を手伝ってもらえてなかった)にも、歯がゆさを感じていただろう。

初七日法要の締めの挨拶で弟が言っていた。
コロナを前にして実家の家業は倒産という形で終えたのだが「コロナまで粘っていたら負担はもっと大きくなっていただろう。」と。
そして最近母から聞いたのは、倒産した時に父から「オレの我が儘に付き合わせて、家族をこんな目に合わせてしまってすまなかった。」という言葉があったらしい。

倒産前から、父は徐々に自分の言ったことをもう覚えていられなくなっていったようだ。
仕事にも支障が出るレベルになっていくほどにもなっていったらしい。
それに加えて昨年にはガンが見つかり、しかし自分がガンであることも覚えていられなくなるくらいにも認知症が進んで行った。

今年の3月になって自宅のベッドから落ちて大腿骨を骨折したことが原因で入院し、そこからは骨折原因からガン原因へと最後まで病質での生活だった。
母から聞く限りでは、倒産前の日常での父の振る舞いに言い争うことが多かったということだが、入院してからの父はスッカリ穏やかになったそうだ。
認知症になると怒りっぽくなったりする人もいると聞くが、父はまったくそれがなかったようで、恐らくはそれが本来の父の性質なんだろう。

6月には父は同じ病院の緩和ケア病棟に入った。
3月に骨折で入院したあたりから、僕も病院へはよく見舞いに行った。
「えりかさんは元気か?」「哲(弟)も来るのか?」
自分がどういう状況なのかを覚えていられない状態ではあったと思うが、最後はどこか自分の命に置かれた状況を悟っていたように思う。

父が求めていたもの、自身の芸術感覚への理解と尊敬。
ずっとそれを求めて、得られる時もあっただろうが、得られなかった時もあっただろう。
もうそれを追わなくても良いんだと悟った時に、自身の周りに纏わり付いていた渇望の鎖が外れて、父は力の無い声でも冗談を言って家族を思いやって笑わせられるような自分を取り戻せたと思う。
僕がもっと幼かった頃の父との記憶、叱り役としての怖かった父の印象もあるが、ふざけて楽しむ父の記憶も強い。
ベッドからでもふざけたことを言う父を久しぶりに見た僕は、記憶の中にある父を思い出した。

父の持っていた願望は、僕にも当てはまる。
欲しても得られなかった時の苦しみは、まだこれからも味わってしまうことにもなるだろう。
解き放たれたような父の顔を見て、自分も報われて、救われたような気持ちになった。

去年2024年、小さくなったなぁ…。歩くのはもう辛そうだった。
これも去年。表情がなくなって来ていた。

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